悟りへの瞑想の道を脳科学から解説

悟りとはどうなることなのかを、瞑想で悟りを得る道筋を脳科学から具体的に解説して行きます

2)過去の人々の(悟り)証言 2-1)「オイゲン・ヘリゲル」の「弓と禅」

2)過去の人々の(悟り)証言

2-1)「オイゲン・ヘリゲル」の「弓と禅」
ある外国人(ドイツ人)哲学者「オイゲン・ヘリゲル」が、日本で弓道を修得した時の経過を書いた、とても有名になった本「弓と禅」の中から「師範と弟子の会話と独白」部分を一部引用します。彼が会得した心境は、後ほど説明する「瞑想三つの段階」がうまく描かれています。
注)下記の引用は、連続したものではなく、適宜抜粋しながらの引用です。
(師範)「弓の弦を引っ張るのに全身の力を働かせてはいけません。そうではなくて両手だけをその仕事にまかせ、他方腕と筋肉はどこまでも力を抜いて、まるで関わりのないようにじっと見ている」。
(師範)「あなたにそれができないのは、呼吸を正しくしないからです」。「この呼吸法によって、あなたは単にあらゆる精神力の根源を見出すばかりでなく、さらにこの根源が次第に豊富に流れ出し、あなたが力を抜けば抜くほどますます容易にあなたの四肢に注がれるようになる」。
(弟子)「腕と肩の筋肉の力を抜いたままにしようと注意すると、思わず知らず私の両足の筋肉組織が、それだけ激しくこわばる」。
(弟子)「誠心誠意苦心している」。
(師範)「まさしくそのことがいけない」「一切を忘れてもっぱら呼吸に集中しなさい」。
(弟子)「呼吸法に没入する」と「自分が呼吸するのではなく」「呼吸させられているような気さえした」。
(弟子)「どのようにしてそれが修得されるのでしょうか」。
(師範)「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らないほど、あなた自身から離脱して、決定的にあなた自身とあなたのもの一切を捨て去ることによってです」。「精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことを習いなさい」。
(弟子)「呼吸への集中が内的に度が強くなればなるほど、外の刺激が色あせてくる。刺激は沈下してもうろうとしたざわめきとなるが、これは最初はぼんやりと聞こえる程度であり、最後にはもはや邪魔に感じられない」。
(弟子)「時が経つにつれて相当に強い刺激に対してすら無感覚となり、同時に刺激から独立した状態が次第に容易にまた急速に現れてくる」。
(師範)「準備をするときの瞑想的な静寂のお陰で、あの決定的な、彼のすべての力をすっかり抜いた状態、その力の釣り合いのとれた状態、あの集中と精神現在を得る」。「自我の代わりに”それ”が入って来て、自我が意識的な努力で自己のものとした能力や技量を駆使する」。「完全に自我を離脱して、我が射るのではなくて、”それ”が射るという絶対無の立場に徹したとき、初めて弓道の奥義を極めることができる」。
補足運動野は、自発的運動に関してなど外的内的入力に従って、確立され習得されている運動の習得的定型行動を制御します。具体的には運動の開始と維持、運動の抑制、習得した運動の一連の行動の実行に関わります。自我(前頭前野)とそれ(補足運動野)とでの主導権について、自我を消してそれに道を譲るのが絶対無でしょう。完全に習得された定型行動は、自我(自由意思、積極性意識、前頭前野)が主導するよりも、無意識(補足運動野)に全権委任するのが良いようです。なお補足運動野の前部に前補足運動野があり、これは前頭前野(自我)との結び付きが強く、前頭前野は前補足運動野を駆動してしまうのではないかと想像されます。
参照)第五章第六節の「受動意識仮説」を参照されたし。