悟りへの瞑想の道を脳科学から解説

悟りとはどうなることなのかを、瞑想で悟りを得る道筋を脳科学から具体的に解説して行きます

5-8)瞑想(静慮・禅定段階) 5-8-3)悟りは意識が消えて全面無意識ばかり

5-8)瞑想(静慮・禅定段階)

5-8-3)悟りは意識が消えて全面無意識ばかり
あらためて「ディヤーナ」(静慮・禅定)とは、認知するという心(主観・意識・メタ認知)の働きを静める、停止することによって、ただ働きだけがあり澄み切った状態になることです。西田はそれを純粋経験という。自我(意識)を拠点に組み立てた階層構造的情報体系を、脳自身が持つ統一力、自己組織化力を基にした体系(仏性体系)への作り替えです。心の働きが止まった超越の体験とは、「何の知覚もない、自己のみに気づいている状態、考えも感覚も何の意図もない、ただ純粋な流れる意識(もうここでは意識と無意識の境界線は取り払われている)への気づきだけが維持されている状態」であり、時間も、空間も、身体感覚(主体感覚)もない体験です。
それと関わるのですが、松尾芭蕉は悟りの句として、「古池や蛙飛びこむ水の音」と詠みました。これは、道元が中国で参禅中に悟りを開いた状況と同じです。つまり古池と道元の悟り状態とは同じです。そこに、古池では、蛙が水に飛び込んで音を立て、道元の悟りでは、師匠の叱責の声が入りました。ということで、芭蕉の古池と道元の「ディヤーナ」(静慮・禅定)が破られました。破られて意識が自動起動し、「ああ、悟りの状態にあったんだ」と「覚知」します。
それについて道元はいう、「諸仏のまさしく諸仏なるときは自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく」と。諸仏なる時を、古池状態、悟り中、「ディヤーナ」(静慮・禅定)状態と解釈すると、その時には、意識が完全オフになっていて、諸仏状態だとの覚知(メタ認知)はできません。夢の中にあっては、これは夢だと覚知できません。夢から覚めてから、あれは夢だったんだと覚知できます。