悟りへの瞑想の道を脳科学から解説

悟りとはどうなることなのかを、瞑想で悟りを得る道筋を脳科学から具体的に解説して行きます

5-8)瞑想(静慮・禅定段階) 5-8-5)瞑想の最終最高段階「サマーディ(三昧)」

5-8)瞑想(静慮・禅定段階)

5-8-5)瞑想の最終最高段階「サマーディ(三昧)」
自分の意識が消え、対象が光り輝く状態に入ります。ここの段階まで来ると、脳科学を離れて最早完全に宗教の領域です。ディヤーナの状態ではまだ幾分か残っていた自我意識も、この境地が深化するに従って次第に弱くなってやがては消滅してしまいます。そして、対象だけが心を占め、自分と対象との区別はなくなった状態になり、集中しているという意識(上位意識)さえも消滅して、心は対象でいっぱいになります。
残念ながら、私には「ディヤーナ」(静慮・禅定)と「サマーディ(三昧)」の区別がつきません。多分現在の脳科学でも違いを確認できないだろうと感じます。ということで、参考に、道元の師匠明菴栄西の、「興禅護国論」の冒頭部分を紹介します。
「大いなる哉、心や、天の高きは極む可(べ)からず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕むものなり」と。
この状態は変性意識状態ともいわれ、宇宙との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴います。究極的には、梵(宇宙)と我(自分)とが融合されるような瞑想状態と表現され、梵我一如とよばれます。
注)薬物や特殊な状況・状態でも、一時的なそのような状態になることも有り得るが、この後(第六章)で説明するように、瞑想などで時間をかけてゆっくりと、脳内の「構造的変化」(心理的・精神的変化)を経ていなければ、単なる一時的な心境変化に過ぎません。薬が切れれば元の木阿弥です。