悟りへの瞑想の道を脳科学から解説

悟りとはどうなることなのかを、瞑想で悟りを得る道筋を脳科学から具体的に解説して行きます

5-8)瞑想(静慮・禅定段階) 5-8-2-3)バンジージャンプ

5-8)瞑想(静慮・禅定段階)

5-8-2-3)バンジージャンプ
ここで上記の例えとして、旧約聖書の創世記に記述されているアブラハムの逸話(「イサクの燔祭」)を取り上げます。これはアブラハムの前に立ちはだかった試練の物語です。その試練とは、不妊の妻との間に年老いてからもうけた愛すべき「一人息子」イサクを生贄に「捧げる」よう、彼が「信じる神」によって命じられるというものでありました。アブラハムがこの「試練を乗り越えた」ことにより、彼は模範的な「信仰者」となります。
これを私的に解釈すると、自分の一人息子イサクを生贄に捧げるとは、自我(意識)を神に捧げることで、悟り(仏性の全面開花、法道ことばの来迎)を開くことができます。
別の例えでいえば、「天動説」(自我中心)から「地動説」(仏性、神仏の下に生きる)への転換です。知識として知っていても、心の中でフランス革命は勃発しません。脳内の情報体系に破壊と創造をもたらさなければ革命は起きません。
しかし、芥川龍之介の描く「杜子春」の方は、仙人が課すいくつもの試練に堪えて乗り越えますが、彼の母親に加えられる苦痛には、思わずギブアップしてしまいました。しかし彼は後悔はせずに、「なんになっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」と語ります。杜子春は、悟りを得て、仏と同列に仏の住む浄土で居並ぶよりも、心を大切にする人間としての道を選びました、あたかも孔子のように。