悟りへの瞑想の道を脳科学から解説

悟りとはどうなることなのかを、瞑想で悟りを得る道筋を脳科学から具体的に解説して行きます

2)過去の人々の(悟り)証言 2-4)「エックハルト」の「離脱」

2)過去の人々の(悟り)証言

2-4)「エックハルト」の「離脱」
神聖ローマ帝国(9~10世紀中央ヨーロッパに成立し1806年まで存続)時代の中世ドイツでのキリスト教神学者かつ神秘主義者であった「マイスター・エックハルト」はいう、「意志が一切の我性から解き放たれている時、また意志が自分自身の外に脱け出して、神の意志の内に没入しそれと一致するように形造られ、また形を変えられている場合には、意志は完全にして且つ正しいものとなるのである」と。道元の言葉に似ている、多分同じ体験をしただろうから似ているのも納得できます。
道元は「心身脱落」といい、エックハルトは「離脱」という。「離脱」とは、自己自身や一切の物事から離れ去った人間の在り方を意味します。それは自己中心性(自我)に由来する手段の徹底的な棄却であります。彼は、神との合一を、そして神性の無を説きます。「自己から離れ、神の自己に溶け込め」と。「自己と神の自己が完全に一つの自己となる」。神と共にある間は、「神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なる」。現代的表現をすれば、メタ認知が完全に消滅した状態なのでしょう。
「極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)が起こる」。仏性という言葉を思い出します。
「自らを消し去り、神の子として生まれ変わったものは人間を超えた存在となるため、いかなる人間からも悩まされることがなくなる。人間から生まれたものは人間に悩まされるが、人間にあらざる神の子として生まれ変わったものは人間による悩みを持ちようがない」。この部分は、仏教の「煩悩」を思い浮かべます。煩悩(人間の階層)から超越した神の階層にいることを表すのでしょう。
「離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめる」。その「離脱は内面において達成される。外的な所有物をいくら捨てても、己の意志を捨てなければ離脱することはできない」。意志とは積極性意識を意味します。
「自己を捨て自己に死んだ魂、即ち離脱した魂の内に神が神の子を生み込む」。これに関しては、西田がいう、「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」と。真の自己=神の子=仏性。西欧では、「御心のままに」とか「ケセラセラ」という。親鸞は「自然法爾」という。あるいは「あるがままに」という表現もあります。
「自己を無にした魂の内に、神はその全有全生命を注入して来る」。
「神が神の子を魂の内に生み込むことによって、我性によって塞がれていた魂の底が破られて、神が神の内に子を生むと言う神の内的生命の律動そのものが魂自身の根底となるのである」。
注1)鎌倉時代の武将・安達奏盛の娘、千代能が、「千代能がいただく桶の底抜けて水もたまらねば月もやどらじ」(あるいは「あれこれとたくみし桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ」)という。
注2)江戸初期の盤珪禅師は、「古桶の底抜け果てて、三界に、一円相の輪があらばこそ」という。